妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

受験勉強だと思うと駄目だ。単なる好奇心。興味。趣味。研究。独学。素人。何も考えずに知識だけ手に入れればいい。後のことはそれから考えればいい。先のことを考えると追い詰められるだけだ。今を生きるんだ。


また親に迷惑をかける。おれなんて何の役立たず。死んだほうがいい人間。鬱すぎるけど街に出かけます。朝の仕事のために早起きしたので。トラウマが頭の中を駆け巡る。自信がなくなっていく。おれはもう駄目かもしれない。気持ちが不安定すぎる。


鬱すぎる…いつものカフェに来ました。馴染みの店員さんの明るさが眩しすぎてつらい。駄目だ駄目だ駄目だ。クロワッサンと小さなピザとカフェラテ2ショット。温かい飲み物を飲んだせいか少し気持ちが落ち着いた。さてまったりと過ごそう。先生は落ち込んだ気分のときも仕事をしなければならないんだ。それに比べて僕は何もしなくていい。恵まれているよね。甘えているよね。先生ががんばって生きているから僕もがんばって生きるよ。やっぱり先生は僕の心の支えだな。


小説を難なく読めるようになってきた。これなら心理学の専門書にもやっと手をつけることができそうだ。今読んでいるのは夢野久作の少女地獄。もうすでに角川文庫から出ているものは揃えてある。角川はあまり好きじゃないんだが仕方ない。少し疲れて眠くなってきた。音楽だけ聴いていると寝てしまうから何かしらを読んだり見たりしていないと。コーヒーおかわりしようかな。


鬱なときは何をやってもうまくいかない。常連のくせに邪険にされているような。被害妄想。偶然という必然さをもって苦手な店員さんに声をかけた。何故だ。こういうときもある。悪いことは重なるものだ。自分に自信がないからネガティブな思考に陥る。孤独だ…そんないつでも孤独を楽しむことなんてできない。さみしい。先生がいるからひとりじゃないはずなのに。どうしてこんなかなしい気持ちになるんだよ…


居場所なんて些細な理由でなくなってしまうものなのかもしれない。ひとりでいるとやたらと嫌なところが目につくものだ。お店の中でひとりでいるだけでこの世の中でひとりぼっちのような気になる。音楽を聴いて気を紛らせようか。


出かけるのは週三日でいい。行くところはいつものカフェしかないわけでそろそろ飽き始めている自分を発見したような気持ちでいる。ひとりでパンとコーヒーでランチをして音楽を聴きながら本を読む。いつも何も変わらない。たまには誰かとお話がしたい。いつもひとりではつまらない。外に出たいと思うのならともかく外に出なければと思って出かけることはそれほどよいことだとは思われない。家にいることが必ずしも悪いことというわけでもない。要はバランスの問題なのだ。


例えば精神科医が精神病になったとしても他の精神科医の患者として診察を受けるなんてことは絶対にありえないことだろう。せいぜい自分で処方した薬を飲むくらいで自分の病院にいる心理士のカウンセリングを受けるなんてこともありえない。でも精神を病んだ精神科医は何らかの治療否癒しが必要なのだと思う。誰かの助けがなくてはならない。そうでなければいつか壊れてしまう。その誰かというのが精神科医自身の患者ということもありえない話じゃない。相性さえ合えばどのような関係にあったとしてもそういうことは起こり得るのだ。カウンセラーの仕事がただ患者の愚痴を聞くだけのものならばあまり楽しい仕事だとは言えないな。カウンセラーが自分自身のことも話さないと信頼関係が生まれることはない。ただ患者の話を聞いているだけでは何の意味もない。結果としてカウンセリングをしても病状は悪化こそすれよくなることはないだろう。精神科医も心理士も自分のことを話すということが患者と信頼関係を築くためには不可欠なのだと思わずにはおれないのです。