妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

通院日なので街に出てきました。いつものカフェに来てます。眠い。テンション低い。何もしたくない。先生のことを考えようとしても考える気力がない。診察時間までまだ一時間ちょっとあるから、それまでには少しは上がってくるだろうか。


クロワッサンとチョコの入った小さなパンとカフェラテでひとりランチ。サンドイッチを食べたかったんだけど叶わなかった。落ち込んでいる気持ち。隣の席の普通の人達の話が耳に障る。ますます落ちていく。聞こえないふりをすればするほど、やけにはっきりくっきりと僕の耳に届いてくる。やっぱり外でも音楽がないと駄目かな。外の雑音が耐えられない。心に余裕がないから気になるんだろう。それだけ体調が悪いということか。何も聞きたくない。まだ40分もあるよ…カフェを出て時間を稼ぐかな。今日は居心地が悪い。


カフェ→精神科→ドトール。黒糖抹茶ラテとミラノサンドC。眠たい。30分くらいまったりしていよう。あんまり早く帰っても意味ないしなぁ。先生とお話したけれど診察だけではやはり物足りない。僕は僕が僕のままでいられる居場所を、もうひとつくらい探さなければならないのかも知れない。先生にばかり頼っていては駄目だ。先生だってひとつだけじゃなくていくつかの居場所があるはず。それはまったく自分のままでいられるところだったり、ほとんど自分のままでいられるところだったり、半分くらい自分のままでいられるところだったりするんだと思う。まったく完全には僕のままでいられないとしても、少なくとも半分以上は僕のままでいられるところだったらそこは僕の居場所になる。少しだけ妥協した居場所ならまだまだ探せば見つかる。そのためには外に出て何かをしなければならない。最初は家でも最終的には外に出てひとと出会うことになるだろう。だから居場所は外にある。家で探して外で見つける。とにかく何かをしなければ何も始まらない。少しずつ、ひとつずつ変わっていく。


ああいう人でもできるんだから僕にだってできるはず。ああいう人がやっていては駄目だ。僕みたいなひとがやらないと駄目だ。


もっとストイックに生きていく。もっと自分を追い詰めていく。自分で自分を追い詰めるのは耐えられる適度な負担。何かに自分が追い詰められるのは耐えられない過度な負担。自分で追い詰めるのと何かに追い詰められるのとでは決定的に違う。自分で追い詰めるのはコントロールすることができる。臨機応変に対応して常に負担を適度な状態に保つことができる。自分の限界を試す必要なんてない。余裕を持った追い詰め方。僕はストイックに生きる。


疲れた…週一しか外に出ないからたまに外に出るとものすごく疲れる。帰りの電車はずっと寝ていたし。とはいえ用事もないのにひとりで街に出かけてもつまらない。通院日しか外に出る用事がないのだから仕方ない。家で忙しく過ごすしかない。


楽しいことなんかひとつもない。ほらまたおでこが痒い。何もいらない。ただ普通の体が欲しかっただけなのに。つまらない。生きていても何も面白いことがない。疲れた。


こめかみからおでこにかけて痒すぎる。ほおからあごを通って首にかけて皮膚がうろこ状態。はがれ落ちかけている。おでこの辺りも皮膚がはがれている。ストイックに生きると宣言したばかりだが、さっそくこの耐えがたい苦痛かよ…痒みに耐えるのはストイックに生きるのとはちと違う気がするんだけどなぁ…いや絶対違うよ。そういうんじゃないでしょ。こんなのに耐えたからって誰もほめてくれないし何にもならないんだから。ただ無駄に苦しいだけ。そんなのストイックでも何でもない。ちょっとそろそろ限界になってきたな。せっかく気持ちは前向きに生きようとしているのに。発狂という発作の予感。かゆみを和らげるためにおでこからこめかみにかけてと、あごから首にかけて冷水をかけた。手がたまらなく冷たくて切ない。このまま眠れるだろうか。あああああ!死にたい…


結局掻いた。ごみ箱の上でおでこの皮を軽く落としているうちにもう掻かずにはいられなくなってしまった。顔はそれでも加減したつもりだけど、首はもうどうなってもいいと思って思い切り掻きむしった。おでこと首から少し血が出た。今は痛い。特に強く掻いた首が痛い。ものすごい脱力感。後悔はそれほどない。どうせ寝ているあいだに掻いただろうから。意識的に加減しながらごみ箱の上で掻いたほうがまし。まあこれからベッドの中で掻かないで眠れる保証はどこにもないのだが。疲れた…そうじゃなくても久しぶりの外出で疲れているというのに。体も心も痛くて泣きそうだよ。でも泣きたくても涙が出ないんだ。感情が壊れている。何かがおかしい。しばらく何も考える気になれない。生きているだけでもう精一杯。どうにもならないことってあるんだと痛感する。とりあえず寝てみるよ。疲れちゃったからね。おやすみなさい。