妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

転勤でなく転職だと思えばいい。3年毎に職が変わるんだ。俺はこのまま終わってしまうのだろうか。それで俺はいいのか。俺の本当の気持ちを知りたい。


せっかくここまで耐えてきて、死ぬほど苦しい思いをしてきて、こんなはした金もらうだけでいいのか?それで本当に復讐になるのか。それで本当に僕は満足なのだろうか。僕はひとの役に立てる人間なんだ。まだまだ僕はやれるはず。僕は後悔だけはしたくない。


シャツもパンツも買うのやめた。脳内貯金が増えていく。ヘッドホンよりイヤホン。据え置きよりポータブル。気楽に気軽に。それは気力がないからです。物欲がない。欲しいと思ってもできるだけ買わない理由を探している。今あるもので間に合う。無理やりでも欠点を見つけて、わざと物欲が醒めるようにする。だから本当に気に入ったもので、本当に必要なものしか買わない。だけどそれでいいのかも知れない。きっとそれでいいのだと思う。物欲のままに衝動買いして、後で後悔するなんて愚かな行為をしなくて済む。ものを買うことに慎重になるのはよいこと。
でもたまには『自分へのごほうび』をあげたい時もある。いつも苦しみに耐えて生きている自分に、何かごほうびをあげたいのです。本当に欲しくて本当に必要なものがあれば、それをごほうびとしてあげたらいい。だけど本当に欲しくて本当に必要なものなんて、実際どれだけあるのだろうか。僕は知っているのです。僕が本当に欲しくて本当に必要なのは、『もの』ではなく『ひと』だということを。ひとをごほうびとして自分にあげることなんて限りなく不可能に近い。そんなの無理だと言ってしまっていい。だからもので妥協するしかないのです。本当に欲しくて本当に必要なものはお金では買えない。僕は知っているのです…


『死んだように生きるのも悪くない。』いい言葉だね。実際深い。深い意味を秘めている。病気持ちなら病気持ちなりに。何もできなくてもできることだけ。『普通でなくていい。』いい言葉だね。普通が正しいとは限らない。『すべては自分の脳内で起きている。』いい言葉だね。脳内世界と現実世界。僕は社会不適合者。
歪んだ認知?本当に歪んでいるのだろうか。社会から見たらそうなのだろう。社会に適合できない認知は歪んでいるのです。社会は歪んでいない?本当に歪んでいるのは…しかし僕らは社会に生きている。だから歪んだ社会でも適合しなければ生きていけない。正しいとか間違っているとか、そんなことは何の意味も持たない。社会に適合できるかどうか。生きるためにはそれだけがすべてであり、それが嫌なら、それができないなら生きていくことはできない。つまり社会不適合者は死ねという社会だということなのです。