妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

話すことで頭の中が整理される。人に話す場合。自分の脳内で話す場合。


いつものカフェに来てます。海老と卵のサンドイッチのランチセットとラテでひとりランチ。眠い…途中クリニックに寄ったら開いていた。今日は診療日。先生はがんばっている。僕は二度寝を繰り返してしまった。怠けかな。早く出かける理由がないと早く起きれない。当たり前か。土曜日なのにお客が少ない。意外だな。三連休の初日なのに。みんなどこ行ってるんだろ。他人のことはどうでもいい。僕の居場所で心を休める。


先生にとって嫌な患者を切ればいい。増える一方の患者の数を減らすことができるし、無駄に時間のかかる患者がいなくなれば大幅な時間の短縮になる。そして何より先生が不快な思いをして心をすり減らすことがなくなる。治療の余地がある患者は診なければいけない。医師として。だけどそうでない患者は無理に診察しなくても構わないと思う。先生が疲弊するのみで、他に何も産み出さない、そんな診察ならやらないほうがいい。先生は完璧主義者ではない。しかし先生は真面目だ。真面目過ぎて自分を苦しめる。


電車の時刻に間に合わず遅くなってしまった。タイミングが悪かった。中途半端な時間に駅に着いたので仕方なくドトールに入る。ホットのカフェラテを飲みながら暇をつぶす。やはりいつも通りでないとうまくいかないな。時間は早めに余裕を持って。全然お客さんがいないと思って油断してたら、いつの間にか忙しくなってるんだもんな。はぁ…自己嫌悪。他人の行動は予測不能だ。自己防衛しないと。あー家庭教師したいな。先生から『不登校家庭教師』と『メールカウンセラー』の依頼をされたい。今余裕ないけどね。いつかね。想像に浸っていたのに現実にぶち壊された。僕には先生がいるからいいよ。僕はひとりじゃない。僕はひとりじゃない。僕はひとりじゃない。


先生の苦労を思えば何でもできる気がするようなしないような。先生だって自分でできないことは頼っている訳だし。僕もできないことはどうしてもできない。結局は無理をしなければならないのか。実際無理をする結果になっている。できないことも無理をすれば大抵のことはできる。ただ無理をすれば心に過大な負担をかける。それによって心が疲弊して無理がきかなくなる。無理をし続けることはできないんだ。無理をしなければできないことは、本当はできなくても仕方ないこと。無理をすればできるではなく、無理をしなければできないと考えたほうがよい。


自分へのごほうびに何か欲しいな。『もの』より『ひと』なんだけど難しい。お金で買えるものしか手に入らない。物欲はあまりない。欲求自体なくしているから。ひとりはつまらない。


鬱になってきた…何も見たくない。何も聞きたくない。物欲も醒めた。何もいらない。疲れた。何もかも疲れたよ。はぁ…こんなときは先生のことを考えるしかない。今日は診療日で夜勤。明日の夕方までたぶん仕事。先生はがんばっている。無理し過ぎだな。何のためにがんばっているのだろうか。僕に分かるはずもない。


何故苦しい道を選んだのか。何故やりたくないほうの道を選んだのか。しかしまだ引き返せる。いつでも道を変えることはできる。今はただ現実的な生き方をしているだけ。道を選んだという言い方は必ずしも正しくない。このままずっとこの道を進むとは限らない。進みたくても進めなくなるかも知れない。今はただ流れのままに身を委ねているに過ぎない。何のためにがんばっている?何のために無理をしている?何のために苦しんでいる?死にたいけど死ねないから。だから仕方なく生きている。生きるためにがんばって、無理をして、苦しんでいる。もうひとつ生きる理由がある。『先生』という存在があるから。唯一の理解者にして心の支え。先生がいるからまだ死にたくない。だから生きている。生きるためにがんばって、無理をして、苦しんでいる。生きる理由には後ろ向きなものと前向きなものがある。どちらも理由としては間違っていない。どちらかひとつでも欠けていたら、僕は生きるために何かをすることはないだろう。