妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

僕はよくやっている。先生が認めてくれたんだ。自信を持っていい。今日は診療日。先生はがんばっている。僕もお揃いでがんばる。生きるために仕事をしている…か。僕は先生とお話するために生きている。そして生きるために仕事をしていることになるのか。つまり先生とお話するために仕事をしているとも言える。だけど僕はそうは思わない。そこに繋がりを持たせることはできない。先生とお話することと、仕事をすることはまったく次元が異なる。現実逃避と現実。それを繋げることはしたくない。


疲れた…今日も忙しかった。パスタのお店に行ったら休みだった。三週連続じゃないか知らん。もう火曜日と水曜日は定休日にすればいいのに。仕方なくラーメン屋に来ている。味噌ラーメンとギョーザと半ライスでひとりランチ。以前よりおいしく感じない。ラーメンとかギョーザという物自体が好きではなくなったような気がしている。お腹だけは満たされた。明日も楽しみがない。


『言葉』は力を持つ。優しい言葉は人の心を癒し、無神経な言葉は人の心を傷付ける。診察が患者を癒すためにあるならば、言葉を交わすということは最も大切なことではないだろうか。言葉を交わすことは一方的では成立し得ない。お互いに言葉を発し、お互いに言葉を受け取る。やはり結果としてお互いに癒されることになる。診察が患者を癒すためにあるという前提では、患者だけでなく先生もお互いに癒されることは必然だと考えられる。


短い言葉でもこれだけ力があるんだ。言葉の長さは関係ない。内容、印象、ニュアンス。言葉のなかにあるもの。伝えようとした意図が相手にうまく伝わらないこともあるだろう。どのように受け取るかは相手次第。誤解を生む可能性があるのは仕方ないこと。ただし強い信頼関係が築けていれば、誤解が生まれる心配はまずないと思う。言葉の真意が分かる。意図したほうに受け取る。言葉の長さは関係ないということは、診察時間の長さにも同じように当てはまると思う。対話は言葉の交換であって、つまりは言葉の集合体である。診察を患者との対話と考えれば、診察は対話と同様に言葉の集合体だと言うことができる。このことは診察は時間よりも内容が大事だという考え方に通ずる。


まだお昼に食べたラーメンとギョーザが残っていて気持ち悪い。夕食は弁当屋のライスと冷凍グラタンと冷凍シウマイ。パスタのお店には失望した。だけど他に行く場所が見つからないから仕方ない。先生なんて忙しくてろくに食事もとれていないだろう。それを思えばまだいいほうだよね。明日は夜勤かな。先生はがんばっている。無理をしている。苦しんでいる。僕もお揃いになるよ。先生とお揃いになりたいんだ。