妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

いつものカフェに来てます。開店前に裏口からこんにちわ。実際は「おはようございます」と言って当たり前みたいに入った。甘いものはひとつだけというルール。今日はいつものランチにエクレアを追加した。ひとりランチを終えたら髪を切りに行かなければならない。アトピーの調子が悪くて気乗りしない。だけどやるべきことは早めに済ませておくのがいい。ラスクを買おうか迷った。でもラスクは結局パンを薄く切ったものに過ぎない。パンを買ったほうがいい。ラスクは邪道だ。左道だ。と言い聞かせてお菓子の類いは避けるようにする。自分のなかの『ルール』作りは結構重要かも知れない。厳しすぎず優しすぎずのバランスのよいルール。ルールを守れなかった罰は自己嫌悪。ルールは自然にできる。ルールは自然に変わっていく。自分のなかのルールという概念は、先生とお話すべきテーマとなり得るだろう。


しかしよくやってるよなー。僕は本当によくやっている。病気持ちなのに無理をしてちゃんと生きている。ここ数年で『開き直り』という武器を手に入れた。これまで人の顔色を伺って、ビクビクしながら生きてきた気がする。他人に対して気を使い過ぎていた。今は違う。それでは自分が損をすると気付いた。これでは生きていけないと気が付いた。すべては生きていくため。自分のため。病気持ちだから許される。と言っても傍若無人に振る舞うことなどできない。どうしても気を使うことをやめることはできない。これは持って生まれた性格によるもの。ここでもバランス感覚が重要になる。『バランス』というものをより意識して日々を過ごしていきたいと思う。それでもバランスを保つことができずに追い込まれたら、最期の手段は「どうせ死ぬのだからどうでもいい」と言い聞かせること。最期の最強の究極の手段。


僕はエリート。病気持ちのエリート。自信を持っていい。僕は先生に認められている。僕はエリート。


どうにか髪を切るという目的を果たすことができた。今まではシャツに付いた毛先を払っていたけど、今日は面倒な気がして顔に付いた物だけ洗面台で水を使って軽く取り除いた。電車の時間が迫っていたというのが大きい。けれどあまり神経質になり過ぎずに、適度な適当さを持てるようになれたら少し楽になれる。強迫観念による行動はなるべく負担にならないようにしたい。ゼロにすることはできないし、する必要もないように思う。ただ適当に済ませることができるようになれば、それだけ負担が減ることになるのは確かなこと。どうせ死ぬのだからと思えば、適当にできることが増えてくるはず。それで余った時間を楽しみのために回すことができる。それはとても有益なことだ。
美容院でファッション雑誌を見ていたらバッグが欲しくなってきた。高いけれど長く使える。今は仕事をしているから買えない値段ではない。物欲が出てくるのはよいことだ。欲求は生きることに繋がるから。


かなり意識して適当にひげを短くした。思い切った開き直り。負担なんだ。だからなるべく時間を短縮したかった。これからはこのくらい適当にやろうと思う。僕は病気持ち。病気だから仕方ない。疲れている。7時間ぐっすりと安らかに眠りたい。