妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

今朝の被害は4.5かな。二度寝を繰り返してしまった。今日は先生に会える。まだ休みの日。楽しもう。


先生と心が通じ合っていたのですね。


ちょうど雨に降られた。スエードの靴を履いているので気を使う。いつものカフェのお気に入りの席に座って、ランチセットが来るまで小さな扇風機で乾かしていた。クリニック→いつものカフェという定番の道程。先生とお話しして癒されて、馴染みの店員さんたちと言葉を交わして癒される。僕の居場所。ケーキがなかったので、代わりに甘いパンを追加した。疲れているので早めに帰りたかった。どうにか電車に間に合った。これは運がよかったと思う。先生から講演用の資料をもらった。準備過程のある意味貴重な書類だ。これを僕にくれるということは、僕が先生から信用されているという証拠ではないか。まあ先生としては軽い気持ちで渡してくれたんだろうけど。素直にうれしい。クリニックでもいつものカフェでも、僕は雄弁を振るっていた。僕が何処までも僕でいられた。まだ休みの日。休みの時間はまだ残されている。まだ楽しめる。


先生からもらった資料は、僕の思っていたのと違っていた。つまり先生が作成したものでなく、依頼者が作った依頼文だったのです。そこに若干の先生直筆と思われるメモが書かれていた。ちょっとがっかりした。先生が実際に経験した具体的な事案がいくらでもありそうな気がするので、この講演の準備は比較的スムーズに進んだのではないだろうか。僕が出る幕はない。わざわざコピーしてもらうものではなかったな。よく読む時間がなくて内容を把握できていなかった。先生とはしばらく会えない。寂しい。がんばる理由を他に見つけなければいけない。これから三週間、僕は何を支えに生きていけばよいのか。小さな楽しみを探して、どうにか毎日をやり過ごすしかないように思う。いつでも心のなかには先生がいる。先生の存在を心の支えにすることはできるはず。


本を読む気力がない。漫画でさえも…音楽を聴き流すだけで精一杯。心に余裕がない。鬱は確実に悪化している。読んでみたい本はたくさんあるんだけど、実際読むという行動につなげることができないでいる。つまらない。今の状態で何か楽しめることはないだろうか。


休んだら無理をする。休みの日というより休みの時間を意識する。だから休みの日に無理をするのは理不尽なことではない。休みの日は休みの時間が平日よりたくさんあるというだけのこと。決して一日中ずっと休める訳ではない。無理をしてから休んで、そして眠ろうと思う。


一時間近くかかった。顎が血だらけ。さて、無理をしたから休もう。遊ぼう。本当はもう眠くてたまらないけど、このまま寝たら無理をした代償が得られない。意地でも遊んでから寝る。これが病気持ちの過ごし方。楽しければそれでいい。


まだ遊び足りないのに家族が目を覚まして起きてきた。仕方なく自分の部屋に戻る。深夜に一階でネットをすることは叶わない。自分の部屋で遊ぶしかない。怒りの気持ちが込み上げた。きっかけは何でもよい。自分の不幸な身上を思って破壊衝動が生まれる。結局寝るしかないのか。寝ている間に掻いてしまうことを知っていて、それでも寝るしかないのか。死にたくなる。何も楽しめない。この連休もただ疲れただけだった。休んでも何をしても満たされない。苦しみから逃れるためにはもう死ぬしかない。


何一つ報われない。生きていても苦しいだけ。先生、さようなら。ありがとう。


死にたい。殺してくれ。もう何もかも嫌なんだ。いい加減疲れた。20年苦しんだ。もういいだろ?