妄想と記憶

人生にくじける孤独な妄想と記憶

形跡6。何故か最近は実家だと多い。リラックスするからかな。副交感神経が優位になるから。苦しみを見て見ないふりをする。僕には先生がいる。眠れるだけまし。


トラウマも似ているかも。心を支配される。強制的に動かされる。


体調がよくないので外に出ようか迷っていた。しかしずっと家にいると鬱がより一層悪化するので、いつものカフェでいつものひとりランチをしようと決めた。今街に向かっています。朝はまだ頭が少し痛かったので、デパスを4錠飲みました。それでも昨日よりは全然平気です。気持ちはかなり落ちていて、もうこれ以上がんばることができない感じ。でも結局は無理をしなければいけない。過酷な日々。昨日の先生のお話について頭を巡らす。書類の一枚でも作ろうか知らん。早めに帰って家でごろごろするつもり。来週はまた先生に会える。


服屋に久々に寄ってから、いつものカフェに来てます。いつものひとりランチにモンブランとアマンデイーヌを追加。シュークリームは取り止め。またついついパンを買い過ぎた。ブランケットが好きな色だったので買い足した。服屋は収穫なし。こんな時期だし、特に欲しいものもないし。家に帰ったら見直して、まだ着たいと思える服を見つけたいと思う。服は高いから最低限にしたいのです。休みの日しか着ないものに夢中になれるはずがない。


何か始めたい。先生と出会えたひとがうらやましい。話してみたいけど、カウンセリングは受けたくない。同じ立場でありたい。


自我のなかには、自分では気付かないうちに刷り込まれたものがあると思う。幼少時に親から言われ続けたことや、友人とか周りの人間関係の影響、つらく苦しい想い出がトラウマになったものなど。大人になってからも、職場の人間関係の影響は大きい。それらの刷り込みも含めて自我と言えるのかも知れない。本当に周囲や他人からの影響の受けない生き方をしてこない限り、純粋な意味での自我なんて存在しないだろう。自分の考えというのは、まったく自分のなかだけから出てきたものではあり得ない。少なからず周囲の影響を受けているはずなのだ。どれが本来の自我で、どれが周囲から歪められた自我なのか判別するのは容易ではない。本来の自我でさえ、自分によって歪められたものだと言うこともできるのだから、余計にややこしく複雑なものなのです。


不便な身体。一時間かけて済ませた。ヒゲはいらない。鬱は最悪。これからデパスをODする。死ぬまで苦しみは終わらない。


発狂。死にたい。


ケーキを食べ過ぎた。ケーキはもういらない。いつものひとりランチも飽きてきた。食欲がなくなっていく。そのまま拒食症になって死んでしまえばいい。


生きる理由は曖昧なままでいいのではないだろうか。死にたくても死ねないから生きるとか。明確な理由なんて探しても見つからない。はっきりしない、ぼんやりしたこともたいせつなんだよ。


やはり食べ過ぎた…49.2kgだった。おそらく過去最高記録。まあ明日から粗食に戻るので、また減り続ける訳だが。朝にパンを食べたのと、ひとりランチでケーキをふたつ追加したのがいけなかった。夕食はおでんとうどんだった。普段小食で食事制限している分、休みの日は食欲を抑えることが難しい。これからは休みの日でも小食とバランスを意識しよう。


指示的精神療法、指示的カウンセリング。非指示的精神療法、非指示的カウンセリング。認知行動療法は前者に当たるらしい。どちらがよいのか。個人によって一概には言えない。個人的には非指示的のほうがよいと思う。


二時間近くかけて、先生の依頼を作成した。本当は依頼でなく、興味があれば考えてみてという感じだったのだけど。寝る前で目が痛い。でも来週が診察日になったので、文書にするには今しかなかった。心地よい疲れ。嫌なこと、余計なことを考えなくて済む。先生の夢を見たい。おやすみなさい。